古川のひとりごと

暖簾をくぐる、ひとりの昼

古川太郎 /  / 雑記

用事もないのに、ふと蕎麦屋の暖簾をくぐりたくなる日がある。誰と約束したわけでもない、ただのひとりの昼ごはんの話。

古い蕎麦屋の暖簾は、たいてい少しくたびれている。藍色が日に焼けて、端のほうがほつれていたりする。そのくたびれ具合が、なんだか僕は好きだ。新品の暖簾より、何千回もくぐられてきた布のほうが、入っていいよ、と言ってくれている気がする。手で押し分けると、ふわっとつゆの香りが顔にかかる。あの瞬間が、僕にとっては昼の合図みたいなものだ。

カウンターの隅に座る。昼どきを少し外しているから、店の中は静かで、湯気の立つ音と、奥でだしを引く気配だけがある。隣の知らない人も黙って箸を動かしている。会話はないけれど、寂しくはない。むしろ、それぞれが自分の昼を大事にしている感じがして、僕はその静けさにそっと混ぜてもらう。

頼むのは、たいてい温かいかけそば。特別なものじゃない。けれど一口すすると、つゆが体の真ん中をゆっくり通っていくのがわかる。午前中の用事も、来る途中で考えていたことも、その湯気にほどけていく。蕎麦は、急かさない。早く食べろとも、ゆっくりしろとも言わない。ただそこにある。

食べ終えて、湯桶のそば湯を残ったつゆに注ぐ。少し白く濁ったそれを飲み干すと、ああ、満たされたな、と思う。大した出来事は何もない昼だ。でも、暖簾をくぐり、静かに食べて、また外の光の中へ戻る。それだけで、午後をやさしく始められる気がするのだ。


ほかのひとりごと

コラム一覧へ戻る /このサイトについて(運営者情報)