古川のひとりごと

沈んだ椅子の話

古川太郎 /  / 雑記

用事もないのに、古い喫茶店の扉を押してしまう日がある。雨でもないのに、なんとなく。

奥の席の椅子は、長いあいだ座られ続けて、ちょうど人ひとり分くらい沈んでいる。腰をおろすと、ぎ、と低く鳴って、それから僕の体に合わせて静かに止まる。あの一瞬の「受けとめられた」感じが、たぶん僕はずっと好きなのだと思う。背もたれの布は色が抜けて、肘のあたりだけ艶が出ている。誰かの時間がそこに染みているのが、なんとなくわかる。

天井の隅から、すり減ったレコードみたいな音楽が落ちてくる。曲名は知らない。知らなくていい。歌詞の聞き取れない外国語が、湯気よりもゆっくり部屋にたまっていく。スピーカーの片方が少しこもっていて、その不揃いがまた、なおさら落ち着く。

隣の常連さんが新聞をめくる。ぱさ、ぱさ、と乾いた紙の音が、規則正しく時間を刻んでいるようでもあり、時間を止めているようでもある。読むでもなく、ただ指が紙を送っている。僕も、別に何を考えるでもなく、その音を聞いている。

外では世界がいつもの速さで回っているのに、この四角い部屋の中だけ、時計の針が少し遠慮しているように見える。冷めかけた飲み物を、わざと冷めるまで置いておく。沈んだ椅子に身をあずけて、何者でもない自分のまま、ぼんやりする。それだけの時間が、僕にはちょうどいい。


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